新宮市 INDEX 

熊野速玉大社
神倉神社・ごとびき岩 
阿須賀神社 
丹鶴城跡 
新宮市立歴史民族資料館 

熊野速玉大社

速玉大社様には撮影にあたりご協力頂きましたことを謹んでお礼申し上げます。
熊野速玉大社の公式ホームページ

世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」において、巨岩崇拝に起源する神社として熊野三山の構成要素の一つです。
速玉大社の祭神に関する最も古い資料は西暦806年の文書と言われますが、創建は当然これよりも古く、速玉大社の由緒には西暦128年であると記されています。
また、国宝324件(指定件数としては一件)を含む1200点にものぼる「古神宝類」や熊野速玉大神像など4点の国宝の神像などを収蔵しており、文化財的見地からも重要な神社です。
大正、昭和期の詩人、小説家で、新宮出身の佐藤春夫の東京の旧宅を移築し、建物本体だけでなく、アーチ型の門や塀、石畳のアプローチ、庭、庭に植えられていたマロニエに至るまで境内に復元して記念館として公開しています。
     
現在の正面入口である一の鳥居は神殿の東に立っていますが、中世の上皇等による御幸の時代には、西側の熊野川河畔の御旅所の近くにあったと言われています 入って右手には熊野ではお馴染みの八咫烏神社が祀られています。八咫烏は古代中国の太陽神に由来するとも言われています。  熊野十二所権現が祭られている朱色も鮮やかな神殿です。 1883年に火事で消失しましたが、1967年に再建されました。
   
右の写真の南神門をくぐると、左から結大紳、主紳の速玉大紳、上三殿には家津御子命、天照大神、高倉下命が祀られ、その右に熊野12所権現の5~12紳の8柱が八社殿として祀られています。
拝殿は主紳である速玉大神の前におかれています。 
八咫烏を絵文字にした「熊野牛王宝印」ですが、三山別々にデザインされています。速玉大社では「熊野牛王符」として社務所で求める事が出来ます。
この裏に起請文を書くなど古くから誓約書などに使われ現在でも、政治家同士の約束に使用されたとも言われます。 
     
10月16日に行われる熊野速玉大社の神事である御船祭はこの熊野川にある御船島を周回します。
また、大社の表玄関であった御旅所はこの近くにありました。 
 広葉樹のような幅広の葉を持つナギですが、れっきとした裸子植物(針葉樹)です。参道の左にあるこのナギは樹齢800年とも言われ国の天然記念物に指定されており、世界遺産としての登録資産でも有ります。
ナギについてはウィキペディアを参照してください。
本宮から新宮に至る参詣道は船により熊野川を行き来しました。
中世には途中の楊枝薬師への参拝などが記録されていますが、現在は新宮市熊野川町
田長(たなご)から新宮までが予約運行されています。 
詳しくは熊野本宮よりへ。
勿論、熊野川も世界遺産として、川の流芯部分がコアゾーンとして登録されています。

▲このページの先頭へ

神倉神社・ごとびき岩

神倉(かんのくら)山(権現山)の中腹に位置し、熊野本宮大社の摂社であり、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素の一つです。
毎年2月6日に行われる火の神事、「お灯祭」が全国的に有名です。
     
速玉大社から15分ほど歩き太鼓橋を渡ると境内になりますが、正面に祀られているのは猿田彦神で、主紳の高倉下命と天照大神はこの写真の鳥居の上、神倉山の中腹に祀られています。  平家との戦勝祝いに源頼朝が寄進したと言われる石段は鎌倉積とも言われ、急峻で、自然石を無造作に設計図無しで雑然と積み上げたように、勾配が不規則で、右端と左端では同じ高さまで登っても段数が違うという、特別仕様の石段です。段数が538段と言われますが、何処を数えるとその段数になるのか不思議で仕方ありません。
何とか登れても、足がすくんで降りられないと言う人を見かけたり、登れないから横の山道を使いお参りする人があるくらい上り下りしにくい階段です。他に例を見ないこの階段は必見に値します。
     
階段を上りきると、目の前に大きな岩が目に飛び込んできます。これがゴトビキ岩です。南紀の方言ではヒキガエルのことをゴトビキとかゴトヒキと 呼びますが、その形からそう呼ばれるようになったものでしょう。
ここは神倉山が自然信仰の対象となり、この岩が依り代として祀られてきたことが発祥と思われます。

社殿は神倉山の中腹の切り立った岩壁の上に位置していますので新宮の町並や熊野灘が一望できるスポットでも有ります。
  お灯祭
雨が降ろうが雪が舞おうが、毎年2月6日、白装束に身を固めた2000人とも言われる上り子が、午後8時、松明に火をつけ法螺貝を合図に門が開け放たれ538段の石段を一気に駆け下る勇壮な火の神事です。 
駆け下る人は大変ですが、見物席が溝の側の狭い通りだけなので見物客も大変です。雨でも降ろうものなら、傘と傘が重なり合い、他人の傘のしずくが我が首筋や背中を濡らす状態になります。
 

▲このページの先頭へ

阿須賀神社

熊野速玉大社から東へ1.3km程離れた蓬莱山の南麓にある摂社です。伝説では熊野三山よりも古いといわれることも有る古社でも有ります。境内からは弥生時代の遺跡が多数発掘されており、その一部が神社の境内に併設されている新宮市立歴史民族資料館に展示されています。
     
中世に焼失した事もあり古文書等は残っておらず詳しいことは解りませんが、背後には円錐形の蓬莱山が控えており、神奈備としての山を背にした遥拝所か祭祀場だったのではないだろうかと思えます。
右隣には稲荷神社、更にその右には徐福の宮が祀られているのは、徐福伝説の色濃く残る新宮ならではの事でしょう。
祭神は事解男之命と家都御子大神・熊野速玉大神・熊野夫須美大神の熊野三所大神です。
 主祭神は
事解男之命(ことさかのおのみこと)で、その本地(本体である仏)は大威徳明王(だいいとくみょうおう)とされ、水牛にまたがる六面六臂六足という異様な姿をしています。世に蔓延する悪を打ち滅ぼす仏であり、平安末期ころからは戦勝祈願の仏として崇められました。隣の新宮市立歴史民族資料館には御正体としての多くの大威徳明王の懸仏が展示されています

▲このページの先頭へ

丹鶴城跡

 熊野速玉大社の東に位置する小高い丘が新宮城址です。城址には石垣のみが残されており、本丸付近は丹鶴公園となっており、地下には紀勢本線のトンネルが走っています。別名、丹鶴(たんかく)城、沖見(おきみ)城とも言われ、江戸時代は紀州徳川家の付家老・水野氏の居城でした。
小高い丘は北に熊野川が流れ、東に熊野灘を遠望し、西に神倉山、千穂ヶ峰を仰ぎ、そして南には新宮の城下町を臨む、市民の格好の憩いの場所となっています。
     
此処が何故丹鶴城と呼ばれたかというと、平家を倒した源義経や、鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔母にあたり、源氏の正嫡為義を父とし、熊野別当を祖父に持ち、熊野別当湛快と結婚し、田辺の別当家で弁慶の父と言われる熊野別当湛僧を生み、夫の死後、熊野別当行範との間に熊野別当行快を産むなどして、富と権力の中枢にいた丹鶴姫が、後年、鳥居禅尼と呼ばれるようになって住んだ丹鶴山東仙寺がこの地にあったからだといわれます。(参考図書 五来重の「熊野詣」)

▲このページの先頭へ

新宮市立歴史民族資料館 

開館時間や地図などの詳しいことはこちらへ。

阿須賀神社出土の御正体や、弥生時代の竪穴式住居の復元模型や土器などが展示されています。 
     
神仏習合の証でも有る御正体(懸仏)が数多く展示されています。特に大威徳明王の懸仏は必見の価値ありです。 

▲このページの先頭へ