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高野山 index 壇上伽藍 ![]()
奥の院 金剛三昧院 大門 金剛峯寺 徳川家霊台 女人堂 霊宝館 参詣道
高野山とは
高野山は約1200年前(西暦816年)に空海により真言密教の修業道場として開かれた、全国に四千とも言われる真言宗寺院の総本山です。
高野山という山は無く、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山、但し他に諸説あり)と呼ばれる標高1000m前後の峰々に囲まれた盆地状の標高800mの平地の地域を指します。
そこは、現在、西に壇上伽藍、東に奥の院と言う二つの聖地が有り、その間に117の子院と町屋などが位置する場所として『蓮の花が開いたような』と形容された仏教の聖地でもあります。
しかし、開山が古く、規模的にも国内最大級にもかかわらず、寺院建築物の国宝指定件数が2件、重文が8件と少ないのは、山上のため、しばしば落雷があり、数度の火災に見舞われたからです。子院の数が117というのは2007年現在の数字であって、江戸期正保年間の1646年の絵図によると1865の子院が有ったと記されています。
また、現在52の宿坊が営まれていますが、その歴史は古く、南北朝の頃の史料『勧学院文書』にはすでに宿坊が営まれていた事が記されています。
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録資産として
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録理由の一つに、「紀伊山地の文化的景観を形成する記念碑と遺跡は神道と仏教のたぐいまれな融合であり、東アジアにおける宗教文化の交流と発展を例証する」という意味のことが書かれていますが、これはとりもなおさず、「神仏習合」の宗教文化を指しています。
修験道の総本山である吉野は、その発生過程から神仏習合的な宗教であったので明治の「廃仏毀釈運動」でも徹底的に分離、毀釈されることはなく、一部に打ちこわしがあったものの、寺院の神社化という方法で残され、後に信者や地元の人達の尽力で寺院に復しました。
ところが、熊野三山においては仏堂は全て滅却されてしまい、神仏習合の確かな証拠性という事象を実感できる視覚的なものは何一つ残っていないと言っても良いくらいの状態になりました。
ただ一つの例外が那智の如意輪観音堂でした。この観音堂が残されていたお陰で後に信者の手により那智山青岸渡寺としてよみがえる事が出来たのです。
ところが、ここ高野山においては、廃仏毀釈運動も起こり、宗教的文化財の散逸も一部には有ったと言われますが、山上の閉ざされた聖地と言う事も有り、文化財、宗教的にも良好な状態で現在の姿に至っています。ここでは明治期迄は全国どこにおいても極、普通の光景であった寺院の鎮守社が見られます。鎮守社とは [Wikipediaより]
日本の寺院においても、仏教が伝わり、神仏習合が進む中で、寺院守護のための神祇が祀られるようになり、のちに寺院以外の建造物や一定の区域の土地にも鎮守神を祀るようになった。現在では、鎮守神はその土地に住む神(地主神)だと考えられることが多いが、元をたどれば、鎮守神は、地主神を押さえ込み、服従させるために新たに祀られた神である。つまり、人間がある土地に人工物を造営したとき、その土地に宿る神霊が人間や造営物に対して危害を加える祟りを起こさせないように、その地主神よりも霊威の強い神を新たに勧請して祀ったのである。そして、地主神は鎮守神に従順に服属し、その活動を守護・補佐することが期待された(ときには地主神が抵抗し祟りを起こすこともあった)。しかし、時代とともに鎮守神の本来の意味は忘れられ、地主神との混同が起こり、両者は習合する結果となった。
女人禁制の歴史
高野山は創建から明治5年の太政官布告まではかたくなに女人禁制を守ってきた霊場でもありました。いや、その後も女人に全面開放された訳ではなく、女性が住む事ができるまでには更に34年経た、明治39年まで待たなければなりませんでした。
禁制が解かれるまでの女性の参詣は、蓮の花にたとえられた八葉の峰を周回する険しい女人道から奥の院を拝む事しか出来なかったのです。
標高800mの高野山への参詣道からの山内への入口は高野七口と言って、7箇所ありました。
大門口・不動坂口・黒河口・大峰口・大滝口・相浦口・龍神口の七つで、よく利用されたのは大門口・不動坂口と大滝口でした。
女性はこの七口より中には入れなかったのです。その為、そのいずれにも女人のお籠り堂として女人堂が有りましたが、現在は不動坂に一箇所残るだけとなりました。
そんな高野山の見所は大きく分けて3つ有ります。
一つは寺院建築とそれに付随する庭園や記念物です。
二つ目は美術品や古文書、史料などです。
最後には参詣道です。
それではその見所の代表的なものを御紹介します。
サムネイルはクリックしていただくとオリジナルサイズの画像が開きます。
壇上伽藍
壇上伽藍
(世界遺産)不動堂 国宝 高野山内の建築物として2例ある国宝の内のひとつです。
不動堂の創建は建久9年(1198年)の鎌倉時代のものとされています。
不動堂の外観は、平安貴族の邸宅風で優美な趣を湛え、また四方から見た建物や屋根の形態がそれぞれ異なるなどの特徴があり、明治32年(1899年)に国宝に指定されました。
明治41年(1908年)には解体修理が施され、その折り、一心院谷から現在の地に移築されました。一心院谷とは不動坂女人堂から山内に下ってきた所で、徳川家霊台の近くの金輪塔の近くにありました。根本大塔 弘法大師は高野山開創に当り、この大塔を真言密教の根本道場として建立されたので根本大塔といわれます。現在の根本大塔は1937年に完成を見たもので、高さ約48.5メートル、約23.5メートル四面の偉容を誇っています。 金堂 高野山開創当時は講堂と呼ばれていたもので、現在の建物は7度目の再建で昭和7年(1932)に完成しました。高さ23.73メートルの入母屋造です。 山王院 御社 の拝殿である九間三面入母屋造りの建物です。山王院は地主社を拝する場所の意で、藤原時代の創建ですが、現在の建物は江戸期の1594年に再建されたものです。
この奥に空海が天野から地主紳として勧請した山王院本殿の3宮が鎮座しており、重要文化財に指定されています。
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金剛三昧院
金剛三昧院
(世界遺産)
高野山内で最多の国宝・重文建築を誇っているのは奥まったところに位置していたため、火災による類焼を免れたからです。
多宝塔 国宝 北条正子が夫、源頼朝と、息子、源実朝の菩提を弔う為に貞応2年(1223年)に建立したとされ、、檜皮葺、高さ14.9mで、高野山の建築物の中では最も古い物であり、高野山に建築物としては2件有る国宝の一件でもあります。
多宝塔は真言密教のシンボルともいえる建築物で、ここの多宝塔は石山寺についで日本で2番目に古いものです。経蔵 重文 日本の伝統的な校倉(あぜくら)造りという倉庫形式の経典の収蔵庫です。鎌倉時代の建立で、正応4年(1291年)6月に塔の北に移し、さらに明応5年(1496年)5月に六本杉横の現在の位置に移したとされています。 四所明神 重文 金剛三昧院の境内に鎮守として祀られている神社で、一間社春日造になり、室町時代の小さな社殿ですが、その精緻なつくりは必見の価値があります。(でも、「これが重文?」といわれる方も…) 客殿&台所 重文 参詣者の応接と宿泊の為に建てられました。客殿及び台所などの細部形式から、江戸初期の建設になるものとされています。 石楠花 県の天然記念物に指定されています。花の頃はさぞや!
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大門
大門
(世界遺産)重文 高野山内への西の入り口に有る高さ25m、五間二階の丹(に)塗りの大きな門です。
最初の建立は1141年と言われ、数回の消失の憂き目に合い、1705年に再建されたものが何度かの補修、解体修理を経て現在に至っています。
左右の金剛力士立像も江戸期の造立で重文の指定を受けています。
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に指定されている「高野山町石道」はこの大門をくぐり根本大塔に至ります。
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徳川家霊台
徳川家霊台
(世界遺産)重文 徳川3代将軍家光が20年の歳月をかけて建立したといわれ、徳川家康と秀忠を祀り、江戸時代初期の代表的霊廟建築です。
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金剛峯寺
金剛峯寺
県指定 1869年(明治2年)に豊臣秀吉ゆかりの寺院である青巖寺と興山寺を合併し、山内統括寺院として金剛峯寺と改称しました。青巖寺(剃髪寺)は秀吉が亡母の菩提のために建立したもので、豊臣秀次が自刃した場所としても知られています。金剛峯寺の主殿は江戸末期の1863年に再建された、東西 54 m 南北 63 m の書院造建築です。
「金剛峯寺」の寺号は空海が名付けたもので、元来は高野山全体を指す名称でしたが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」とよばれています。
したがって、世界遺産としての登録資産の「金剛峯寺」は前者を指す名であって、当寺院を指しているものでは有りません。
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女人堂
女人堂 女人禁制の高野山では、女人道を登って奥の院を遙拝しなければなりませんでした。
女性が身を清める為のお籠り堂として高野山への七つの入口に設けられていましたが、現存するのはこの不動坂入口にあるもののみとなっています。
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奥の院
奥の院
(世界遺産)弘法大師御廟 高野山内の最奥、摩尼山(1007m)の麓に有る弘法大師空海の御廟です。空海は即身仏となりこの御廟で生き続けていると信じられていました。
今も、真言宗徒にとって絶対的な神聖な場所として信仰の要となっています。供養塔 一の橋から奥の院迄の2kmの参道には、10万とも20万以上とも謂われる皇室、公家、一般の人々、さらには他宗の開祖まで、あらゆる階層の人々の墓石や供養塔が祀られています。
戦国大名に至っては6割以上がここに供養塔が有るといわれています。杉並木 記念物 参道脇の老杉の並木は、奥の院の幽玄さを一際引き立たせています。
霊宝館 高野山内の貴重な文化遺産を保存展示施設として大正10年に開設されました。
現在では国宝21件、重要文化財139件、県指定文化財15件、重要美術品1件、合計176件、約2万8千点弱を収蔵、その他に未指定品になりますと5万点以上を数える文化財が収蔵されています。
詳細案内は霊宝館のホームページをご覧下さい。
町石道
(世界遺産)慈尊院から高野山へ通じる高野山の表参道で、弘法大師空海が高野山を開山して以来の信仰の道とされてきました。2004年7月に、高野山とともに『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録されました。また、国指定の史跡でもあります。
高野山への道標(道しるべ)として、1町(約109m)ごとに「町石(ちょういし)」と呼ばれる高さ約3m強の五輪卒塔婆形の石柱が建てられ、高野山上の根本大塔を起点として慈尊院までの約22kmの道中に180基、根本大塔から高野山奥の院・弘法大師御廟まで約4kmの道中に36基の、合計216基の町石が置かれています。
最初は木製の卒塔婆だったものを、鎌倉期に現在ある石製に建てかえられましたが、今でも150本の石柱が建立当時のまま残り、今なお昔日の面影を伝えています。不動坂道(京大坂道)
昔の高野七口(街道)の内の一つで、京都や大阪方面からの参詣街道として大変な賑わいを見せたことで知られています。現在、不動坂を歩くのには、南海高野線極楽橋駅で下車し、不動谷川に架かる朱塗りの極楽橋を渡って、不動坂口女人堂までの約2.5㎞の道で、石畳で整備されています。
大正期に付け替えが行われて現在の道になっており、昔日の面影を残す部分が少なくなっているのは残念です。女人道 女人禁制の高野山では、女性は7つの山内への入口に設けられていた女人堂に籠もって身を清め、峻険な女人道を登って奥の院を遙拝しなければならなりませんでした。高野三山といわれる摩尼(まに)山、楊柳(ようりゅう)山、転軸(てんじく)山を越えてなお続く参道は、厳しくも長い道のりではありましたが、心の平安を求める女性たちにとってはかけがえのない祈りの道だったのです。 熊野古道(小辺路) 高野山から熊野本宮に至る道程76kmの古道で、1000mを超える山や峠を4つ越える熊野古道の中では最も険しい参詣道です。
詳しくは熊野古道小辺路をご覧下さい。